義務教育の必要性を、子どもの頃に、感じることが出来た人ってどのくらいいるのだろう?
少なくとも僕は、必要性を理解出来ずに、嫌々勉強をしていた。
どこの情報も基にしていないのでこの考えがどのくらい世の中に浸透しているのかわからないけれども、大部分の人間が普通に生活するうえで、一般教養と呼ばれる全ての知識は使っていると思う。
もし子どもが勉強をしないとしたら、勉強に必要性を持たせる事が出来ない事や、楽しく出来ない事が問題だと考える。僕は人間は環境が作るものだと考えているので、子どもの周りにいる大人、学校の先生は当然の事、大人と呼ばれる人間は全員一般教養の重要性を具体的に感じていて欲しいと思う。
さて、一般教養が生活のどこに紛れ込んでいるのかを説明するために、僕の休日を例にとると、まず翌日の予定を作るという過程がある。一日にしたい事がどれだけあるので、どんな風に時間を割り当てて、何時に起きるのか?これは立派に算数科の足し算、引き算、割り算、掛け算になる。
同じく事前に予定をたてるためにインターネットやら本で情報を取得する。漢字が読めなければ情報収集は覚束ないし、正しい言葉を書けなければ検索も出来ない。日本語の大部分の音には意味がないという事は置いておいておく。ジャーゴンを使っているようでは人間は幅広い世界を見る事が出来ないことを知る必要があるわけ。これは立派な国語科の勉強かと考える事が出来る。
つづいて、予定通りに朝を迎えて新聞やニュースを見ると、様々な情報が目や耳に飛び込んで来る。国語は全ての学習の源であると言う人がいるようにここでも文章読解と漢字の読みが入る。でもそれだけではなくて、国際的な会議で石油の値段が変わった時にその後の行動を考える。これは経済の勉強やそれに関わる歴史の勉強になる。歴史から未来を予想するという事の重要性を知る。つまり社会科の勉強になる。
情報収集を済ませたら食事の時間。僕の場合、ご飯を食べる時はまずカロリーや栄養のバランスについて考えがめぐる。栄養士でもなんでもないのでテキトーだけれども、ダイエットしながらも肌つやを守りつつ、活動的に生活するためにどうするのか、ビタミンだけとっとけば大丈夫みたいな事を言う人が知人にいるけれど、僕はそれが間違っている事だとわかっているつもりなのでそうはしない。
必要な栄養をおいしく楽しく体に取り込むためには料理も立派な知識である事がわかる。
ご飯の後片付けをする時にも注意というか知識が必要だ。 油物は洗剤をつけたり、お湯で洗わないと綺麗(綺麗の定義はおいておいて)にならない事を知っている。それらは環境に少なくとも良くはない事を知っているから油を使って焼いた目玉焼きの皿に茶碗を置いたりしないし、澱粉質の汚れは乾燥するととりにくいのですぐに洗う。自分で楽をするためにとか、自分がどうしたい、どうなりたいと考えれば勝手に家庭科の勉強になる。
休日の一部だけで一般教養の必要性を説明する事が出来る。例えば僕ならこんな風に(もっと上手に)義務教育の必要性を理解できない子どもに伝えたいと考える。
上に挙げたのは一例だけれども、義務教育の内容全てを大人になった僕の一般生活で網羅出来るのかと言われれば、想像を巡らせれば全て網羅出来る。僕は置いておいても、大人の誰もが網羅出来ない内容ならそれは一般教養じゃないだろう。
今日の書き込みがどうしてこんな内容なのかというと、たまたま当社が自前で運営しているトイスタ(http://toyst.jp)の中で小学生のご利用者が「授業がもっと短かかったら良いのに(「*時間だったらいい」)」という事が書いてあったのを見て、専門的な内容ならともかく、一般教養で時間割をする事に意味があるのか、子どもが考えている授業のコマ数とは別な意味での時間割について考えついた事を書いてみたかったからだ。
時間割を無くす試みをしてみたいな。そういう事に取り組んでいる人がいるのか調べてみよう。 僕には常に僕自身のオリジナリティが必要だ。

